昭和四十九年十一月二十一日 朝の御理解


御理解 第九十節 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかし い。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる」


 今合楽で言われておる合楽示現活動ということ、それを内容を分からせて頂けば頂くほど素晴らしいことに気付かせてもらう。今の教団の教勢の状態というものが、いわば行き詰まり状態であると。いうなら一つも信者が増えないと、いうようなふうに言われる様になって、もうずいぶんしばらくになります。
 いうならば教団全体が足踏み状態だといわれておる。また教団の曲がり角とも言われておる。ここに何とか一新しなければと、いわば危ぶまれる様な状態にあるとき、いうならば九州のいうなら片田舎、それこそ田園教会の合楽教会で唱えられ叫ばれておるという、それが今の合楽示現活動である。
 これがどうでも下から上に水を流すほどに、難しいことであろうけれども、これはどうでも津々浦々の教会にいたるまで、本部へ向かってこれが流れて行くおかげを頂かせてもらわなければならない。
 ささやかながら合楽でその示現活動のということがです。そういういわば活動がはじまって、そのあかしの様に、そのしるしの様にいうなら御比礼が上昇中である。
 昨日何通も手紙が参りました中に、おかげの泉編集部宛に三通来とった。こんどこのごろからの青年教師の方達に聞いて頂いたお話が、書物になった。それでそれが五百円かかる。それで必要であればお金を添えて申し込んでくれというような、私は知らなかった。そういう手紙がよその教会に配ってあることを、ところが、昨日たまたまそのこちらから出した手紙のうらに注文をして来ておる教会があった。
 しかもその三通ながらみんなですね、なら一冊申し込もうというのではなくて、やっぱあの二冊送って下さいと、どれもそう書いてある。だからこれはやはり合楽に大変関心をもっておられ、よせておられる教会である事がわかります。まあお付き合いで、ならもう一冊もろうとこうかと言った様なものではないということですね。
 そのこちらから出しておる文面にです、誰があの文章を作ったか知らんけれども、今のことが書いてある。合楽示現活動が開始されるや、もうそれからの合楽の教勢というものは、それこそその信心を求めて、教会に参り集うて来る者のひきもきらずの参拝であると書いてある。
 確かにそうなんです。皆さんがいうなら三ケ月か四カ月に入った位でしょうか、もう本当に日々参拝者が増えておるということ。お月次祭の日にいうならば、千名以上越すようになったのも、やはり示現活動はじまってこのかた。大祭ともなれば今までかってない参拝者で、だんだんおかげを頂くように、いうならお広前あふれるような参拝者であるということ。
 この調子で上昇していったら、それこそ合楽教会の大発展でありますけれども、その合楽教会の大発展がね、とっても教団の発展につながらなければならない。大きく言うとそれが世界総氏子の助かりにつながらなければならない。ただ合楽教会が大発展すればよいと言った様なものではない。
 合楽示現活動のもつ内容というものは、本当に世界中の人間氏子に、分かってもらわなければならないという内容をもっておる。だからどうでもいうならば、これが私が大変徳があって有名な先生であればです、私の言うことは上から下へ水を流すように、はああ、合楽の先生が言うことであるから間違いなかろうと言うて、みんながそれに飛びついて来るだろう、それを信心を受けようとするであろう。
 ところがどっこい、こちらに徳もなからなければ、有名教会でもない。いうならば九州の片田舎にある最近、いうなら、ようやく五六年になったばかりの小さい、いうならば、名もない教会の長であるところの私が、言いだしておるのですから、これはどうでも教団全体にと言うて、いう願いをおこし思うてです、おかげを頂いていくのですから、これは大変むつかしい。それこそ下から上へ水を流すほどしにむつかしい。けれどもやらなければならない。
 事実、教団の発展発展を言いながら、全然発展していないというです。それにひきかえ合楽ではこの示現活動が始まって以来、日々いうならば、その御比礼の輝きぶりというものは、本当に、いうならば驚異にあたいするほどしのおかげを受けておる。
 昨夜菊栄会でした。私は何時も菊栄会には入りませんけれども、昨日はどうしたことか丁度十一時過ぎに、御祈念に出て参りましたから、何気なし入ったら丁度私知らなかったんですけれども、あんた達はどげんなふうかね、示現活動ということ、合楽示現活動ということが問題になる。または大黒様を合楽の信者が奉斉するということが問題になって、しかもそれがうったえられるなら、まあそれこそ不穏なです。雰囲気がある。
 けれどもそれを説明をすればです、それを説明を本当に求め、またその内容がどんなことかと、分かろうと努められるならば、こんな素晴らしいことはないということが、分かられるに違いないけれども、そういうふうに納得がいくように、あんた方一人一人がです、説明が出来るか。合楽の菊栄会といやぁ、もう合楽でもう総代会に次ぐ人達の、まあ幹部の集いである。
 そのあんた達がです、どげなふうかと言うて話しましたところが、実は今ね、そのことについて話をしておりましたというのです。そして高橋さんにお願いして、合楽示現活動がどういうようなことかいうことをです、ひとつ文章にしてもらいたい。そして私共だけではなくて、合楽信者全部にです、合楽示現活動とはどういうようなことなのか、どうして金光教は偶像崇拝でもないのに、大黒様をおまつりしたりするのかと言う様にです。分かってもらえるだけのお話がでけるか。
 ところが皆さんそのことを考えておられてです、どうでもそれを文章にして貰おうと、言う話をしておるところです。丁度今親先生のお話しを只今聞かせて頂いて、改めて簡潔にいうならば、皆が合点が行くようにお話が、説明ができれる。自分もおかげを頂き、いわゆる自他ともにおかげを頂いていけれることのために、その勉強をしなければいけないということを、例会でも取り上げて、研修の対象になっておったものでございました。
 それで私が、とにかくお話を合楽がどげなことを言いだすかと言って、喧嘩腰で求めて来られたって話し出来るものではないですけれども、どういうことかと求められた時にです、相手の心をパツとこうつかませてもらうと、そしてつい最後まで話を聞いてもらうためにはです、どういうことかと言うと、今の教団ということ、各々教会においてです。なるほど、中には隆々たる御比礼が輝いておるところもありますけれども、大体において、いわゆる足踏み状態の教会が沢山あるということ、多いということ。
 そこで、合楽示現活動というのはです。例えば、沢山な信者信奉者があるが、その沢山なお道の信者信奉者が、本当に金光教の信心によって私が、私の生き方が助かっておると、本当に金光様の信心から、ほかの信心にはとても移られない。金光様の信心でなければでけんと思うておる信者はまた沢山あるということです。どこの教会にだって必ず、そういう信者が十人二十人おらんことはありません。金光様の信心は素晴らしい、また金光様の信心のおかげで自分の家はおかげを受けておる。と思うておる信者は沢山あるけれども、そのおかげを受けておるということの事実をです、ならハッキリ自分で自覚が出来ているという信者も、また非常に少ない。
 それはなぜかというとです、金光教でなからにゃできんというて金光教に帰依してしまって改式までして、金光教によって事実助かっておるけれどもです、けれども何とはなしに、まだおかげの頂き足らん様な思い方に中に、生き生きとしたものが生まれてこないんだと。
 例えば、私がいうならです、もうお話しを聞くほとんどの人が、ほんなことそれどこではなかです。私の教会にもこれだけの信者がおるが、みんな金光教でなけりゃでけんという信者ばっかりですというだろうと思うです。先生方に聞いても、事実そうなんですから。そこで、そういう人たちにです、本当におかげを受けておるという事実を、自覚させるということなんです。
 合楽示現活動というのは、まず、金光教におって私が助かって、私の一家がおかげを受けておるという事実をです、確認させるのです。それが合楽示現活動のいわば、願いといってもよい。
 なぜって、そういうおかげで助かっておるという自覚まちでなからなければ、次の信心に進んでいかれんのだ。金光教の信心でいう、いうならば、あいよかけよということは、神様と氏子が一緒に助かり合うていこうということなんだ。
 ところが、自分の家は助かっておるのに、はたして神様が助かってござるか、神様が助かって頂くためにはです、いわゆる示現活動を起こさなければいけない。いうならば、金光教によって助かっておるものが、自分の助かりを、もう一つ自分の周囲に拡げて行こうという働きにならなければならない。
 いうなら金光教でいうところのです、神も助かり氏子も立ちゆくという、そのことを、示し現していくということが、示現活動なんです。というように、まず説明したら素晴らしいことだろう、しかも、ならその次に示現活動ということは、神仏が不思議な働きを示し現すことだとあるのですから、そういう、なら自分は金光教によって助かっておるという自覚の出来た人が、それを人に伝えていくときには、もうすでに神仏が不思議な働きをそこに現しなさるのだ。
 その事実を、なら合楽は証をその日々たてておるんだと、いうことにお話が進んで参りますとです、示現活動という内容が、また分かってくる。神様が待ち望んでござった活動である。それが一つの大きな運動ともなって、全教挙げて合楽示現活動ということにならなければいけない。
 合楽ということは、自分がおかげを受けておるというところが極楽なら、その自分の頂いておる極楽のおかげをです、次のまた世界に、そこは自分だけではない、マイホーム的なおかげではない、神様も助かって下さる世界が合楽なんだ。神様と氏子がとにかく仲ようする。天と地が一つになる、そういう働き。そこから良いものが産みなされて来ておる、その小さい事実、それが実証されておる。小さな事実がです、現在合楽ではおきておるんだというわけです。
 そういうふうなことじゃったら、金光教の信者であろうが先生方であろうが、もう本当にいっぺんに飛びついて来るだろう、自分方にもそういう信者は沢山あるんだから、おかげを受けている信者は。それにお道の信心によって、おかげを頂いて助かっておるという自覚を持たせるという運動なんだ。
 そして本当はもっともっと広い、それをいわば、世界中に拡げていこうという、自分だけの助かりに止まらずに、沢山の人が助かっていくという運動。活動にそういうお互いが心の状態が生まれたら、それにはもう神様がそれに便乗するかの如くです、神様が先頭に立って不思議な働きを示し現して下さる。
 今、合楽で起きておるところの、日々の奇跡の状態というものはこうなんだと説明すれば、本当に、私が言うておることに帰依をされる信奉者、又は教師先生方もだんだん出来て来るであろうけれども、どっこいこちらに力がないから、それは下から上に水を流すほどにむつかしい。
 けれどもここに、私はこの願いを立てられて、誰がなんと、むしろいまではです、それに対するところの反対の方から、こちらが光輪の世界をというて、光の輪を拡げていければ、向こうの方からそれに反対する様な投石されておるような、石を投げられておる様な感じで、また向こうの難儀がこちらに押し寄せて来ておる。昨日の御理解が。
 とにかく烏が沢山、ならこの教会の周囲におって、まあいうならば私からいわせりゃね、ガアガア言うなということなんですけれども、ガアガア言い出したということなんですよ。昨日はその御理解でしたですね。
 だからそのガアガア言うておる人達にです、ふんなら本当に私のところへ来て、示現活動とは何か、大黒様奉斉はどういう意味かと言うて来ればです、それこそ、はあ成るほどそれは、素晴らしい自分の教会でも、示現活動に参画させてくれと言うような事に成る。と言う確信は持ってはおるけれども、こちらに力がないからその働きは、微々たるものではあるけれども、私の方の教会を見て下さい、少しずつではあるけれども、日々そういう人が助かって行くということの上に、そういう働きを現しておる。あなたの教会で、いわば信心が行き詰まっておるとか、教会が一つも発展していないとするならです、こういう働きを取り入れられる事は、神様の願いでもあるのですから、そこに気付いておかげを頂いて下さいよということが言える。
 また言うて行かなければならない。というて私の流儀が、要するにお話しをして回るという行き方でなくてです、ここへそれを不審に思うたら尋ねて来て、はじめて分かるという行き方を取るのですから、やはり俗人の、いうなら凡夫から道を開こうと言うのであるから、それは暇がいって、またむつかしいんだ。けれどもその辛抱して行くうちに、いよいよ徳が受けられるというところが、素晴らしいではないですか。
 だから五年かかるとこ、十年かかることもまた有り難いということになるわけです。その辛抱しておるうちに徳が受けられるということです。一時は難しい事があっても、辛抱して行く間には徳が受けられる。
 誰が徳が受けられるかというと、私が、教会全体が徳を受けられることになるでしょう、けれどもそんなら、問われて、尋ねられてです、いうなら説明が出来ない様なことでは、合楽の信奉者の一人一人がです、そんなことがあってよかろうはずがない、これほど言われておることだから。だから説明しろと言ったって説明ができない。
 それはあなたぁ、と言うても、いわば見当違いの様なことを却って、このごろ桜井先生ではないですけれども、却って反発の矢の方がひどくて、そげいいいなさったっちゃ私は分からんけん合楽の先生に聞いて下さい。私がどうして合楽の先生に聞きにいかんにゃいかんの(笑い)と言って反対に怒らせる様な結果にすらなって来る。結局説明が、いわゆるまずいからと思うんです。
 いうならば本当言うたら教団全体が求めておるところを、合楽はその全教の求めておるところを実をもって証を立てて行っておるのが、合楽示現活動なのです。
 まずは、いうならばおかげを受けておるという、その事実を確認する。その確認が出来ていないのが今の教団、まあいうなら、ほとんどの信者信奉者じゃなかろうかということなんです。
 昨日、日田から、ずうっとお参りが続いておった中に、電話も日田から何件からもかかって来た中にです、この前の日田の共励会で大変おかげを受けたという、初めてその会合にお引き寄せを頂いた方が、今日その私の方へ電話がかかって来た。(パアマ屋さん)というのは、あの晩に共励会にやらせて頂いて、合楽の信心の素晴らしい事に、初めて信心の話を聞いて素晴らしいのに驚いた。
 帰って途端に家庭の雰囲気が良くなった。帰った途端に明くる日から会社の雰囲気が良くなった。これも驚きである。それで今日は何かしきりに自分の心の中に、会社の方をサボってからでも、合楽にお参りしたいごたる衝動を感ずるが、今度何時お参りしてですか、その時連れて行って下さいという電話が、〇〇さんからかかって来たという電話がありました。
 もう分かっても分からんなりにでも、いかに例えば、合楽の話を聞いて、はあ素晴らしいと感じただけで、そういう働きがあっておること。だから奇跡ということはね、病気だけのことではない、体の上のことだけじゃない。
 これも昨日は朝の御祈念の後に、高山さんのお届けでしたけれども、この前の月次祭に星野から三名お参りがあっとったそうです、高山さんの遠い親戚に当たる、大変おかげを受けておる。その話を聞いて初めて付いて参って来た、この前の月次祭に参ってきとった。とにかく第一にたまがったことは、その人は脳と目が悪くてね、下を向いて字を読むということが全然出来ない人である。
 ところがです、帰りがけには、おかげの泉を求めて自動車の中でずうっと読んでいた、ところがね、おかげの泉だけなら読めれる。何回繰り返し読んでもその頭がふらふらしない。それだけではなく、その方達が勤めておる小さい会社(工場か何か)です、星野にある。こちらに本社があって東京に大きな支社があるとかなんとかというような所へ勤めておられる。それが今言うように、三人で顔をば見合わせるごとです、昨日あたりだん合楽にお参りしたところ不思議なところじゃある、こういう働きがもう起きたと、会社内で顔を見合わせるようなおかげを受けておりますという電話が、昨日一昨日高山さんから電話がかかって来た。
 もう次の月次祭がまた待ち長い、初めて参ってきてね、そういう例えば、それが家庭の上に会社の上に、そういうおかげが現れて来ておるということ。このご大祭にお参りした。一回お参りしただけで、お話を頂いただけで、長年の病人がです、もうたまがるような全快を遂げておる。頭が悪い方この方は、やっぱ星野から参って来た方の中におられる方です。
 そういうようなです、いうならば合楽示現活動というその働きが、神様の働きである証拠にです、そういう不思議な働きが伴うておるということです。
 だからいうならば実証を、そういうおかげをひっさげて示現して行くのです。示し現して行くのです。話ではなく実際にこういうおかげが受けられるという見本をひっさげて、いうならば示現活動をして行くのですから、それこそ頑固な頭の人であっても、分かるだろうと思う。
 心が有り難い方へ変わるから、おかげを頂くのはこれはもう当然のことなのです。「日々の改まりが第一、本心の玉を磨くもの」と本当に自分の心が有り難く変わって、有り難いおかげが付くのはこれはもう当然のことなのです。ところが今の合楽示現活動に伴うておるおかげはです、人間も変わらない、心もさほどに変わってはおらんけれどもです、おかげの方、ただ少し、はあほんなこと合楽の先生が言われる通りだというふうなものに少し分かっただけで、そがしこ分かっただけでです、もう家に帰ったらおかげの方が、先回りして待っとるちゅう感じなんです。それが奇跡なんです。
 頑固な人が、動脈硬化が多いと言われた。それはそのはずです、何時もぶりぶり腹を立てとる。それこそ合楽の示現活動の話を聞くと、腹かいてからですね、どうでんこうでん訴えようとする先生のところでは、御比礼は立たんです。動脈硬化になつとる、そして危ないそんな教会は、例えば注意されたことで腹を立てるということはなくて、いわば人間がやわらかになって有り難くなりゃあです、ね、おかげが受けられる。
 病気がなおる、それは奇跡ではない、当然のこと。だからそれと反対にプリプリ腹かいたり、頑固ないうなら考えしておるのはです、動脈硬化を引き起こす元になる。それも当然のことなんです。当たり前だ。
 だから本当に動脈硬化にならんごとあるおかげを頂きたい、一事が万事にです頂くならば、如何に心を変えていかなきゃならんか、やわらかくして行かなければならんかということが分かりますがです、そういうおかげを頂いて行くということと同時に、いうならば合楽示現活動に、お互いが参画さしてもらうということは、ただ私が参画さして下さいではなくて、人にもその参画を促せなければならない。
 それには成るほど一ぺん二へんでは、中々分かってもらえんにしましてもです、私は最近、合楽が教内布教するとが、大変な悪いことの様に言われておりますけども、これはやっぱり本気で教内布教を、まずしなければいけないということです。
 教内全体がです、いうならばもう人が助からない、もう同じ足踏み状態であるといった様な教会は、もう動脈硬化になっとるとです。ですからそういう人達に合楽示現活動を促して行く、そして本当にそうだっと気が付いたときにです、そこの教会が発展して行く、だから合楽教会が大発展を遂げるということはです、合楽示現活動によって発展して行くということは、その発展がいうなら教団全体に連なって行かなければならない。
 そして金光教全体がです、合楽示現活動ということを叫ぶ様になったとき、その教団全体の大きな力がです、全世界にいよいよ大きな光の輪を、拡げて行くことが出来るんだという確信を持ってお互いが、示現活動に参画しなければいけない。
 同時にまた参画して行く人達に促して行くために、合楽示現活動とは、ということをです、相手が合点が行くように、お話が出来るくらいな勉強は、しなければいけないということ。それはただし決して簡単なことではない、それはなぜかというと、下から上へ水を流すようなことだからであります。
 けれどもそれを辛抱しながら、一ぺん二へんでへこたれる様なことのない、そこをいよいよ信心辛抱し繰り返して行くうちにです、暇がかかればかかるほど、辛抱して行くうちに徳が受けられるのです。これはもう個人の徳ではないです。
 合楽教会に徳が受けられるのです、そこのところが楽しいではないですか、難しいことが起こっても、また楽しいです。
 今日はこの九十節をですね、小さい意味ではなくてね、教団全体または教会全体の意味で聞いて頂いた。めいめいのことではない、合楽教会全体がですいうならば、下から上へ水を流すような難しい問題に、しかも有り難い尊い問題に取り組んでです、これをいよいよ示現して行こうという気になれば、神様が先回りをして、奇跡を見せて下さる様な働きが、必ず生まれる。
 今それこそガアガア言うておる人達もです、それを一度聞いて分かったならばです、それを自分の信心の上に教会の上に現せなければ、おられないことになって来るだろう、そのころには、私も徳を受ける。教会全体が、また徳を受けて行けるということにもなります。どうぞ。